四天王信仰は仏教の伝来に伴い、早々と日本に伝えられ、四天王像の造像活動も四天王信仰の伝来と間をおかずに始まったと言われている。日本最初の四天王像はいつ製作されたか不明であるが、資料に残る日本最古の四天王像は四天王寺金堂四天王像であり、伝存していない。法隆寺金堂四天王像(以下で法隆寺金堂像)は四天王寺金堂四天王像(以下で四天王寺像)に次いで古く、四天王寺像を原本とする模作だと言われるほど様式上の類似が見られる。現在なお伝存しているので、現存する日本の四天王像の中で最古になる。
1.1 先行研究
法隆寺金堂像(図一)は後世の四天王像とは様式上大きく異なり、時間の隔たりを感じさせる。日本の四天王像の中では特異とも言うべき存在であり、謎に包まれている。法隆寺像は動勢に富む後世の四天王像と違い、邪鬼の上に真っ直ぐと直立する姿勢、飛鳥時代止利派仏像を思わせる柔和な顔立ち、邪鬼が四天王像を支えるポーズなどがユニークである。そのなかで、特に注目されるのは邪鬼のポーズである。また、四天王寺像の模作であるかどうかという問題を巡り、議論が繰り広げられているが、学者の意見が分かれる。そのほか、広目天像と多聞天像の光背に作者に関しての銘記が刻まれ、法隆寺金堂像の製作年時を考える手がかりとなった一方、銘記に対する解釈がさまざまなので、製作分担などの問題で諸説紛々である。
法隆寺金堂像に関して、先学による研究が数多くなされ、蓄積が厚い。法隆寺金堂像の様式、銘記などを巡る諸問題を分かりやすく整理し、各自の意見を提示したのは岩田茂樹氏 、町田甲一氏 、内藤藤一郎氏 と濱田青陵氏 である。四天王寺像との関係に関しては、内藤氏は模作説を主張するが、岩田氏と町田氏は反対である。東野治之氏 や佐藤虎雄氏 などは法隆寺金堂像の光背銘記に関し、それぞれの意見を述べた。各先学の具体的な論述はここでは展開しないが、節を改めてその詳細を見てゆくことにする。
1.2 本稿の目的と方法
小稿では法隆寺金堂像の先行研究を具体的に列挙し、先学の意見を参考にしながら、銘記、様式という二つの角度から法隆寺金堂像にかかわる諸問題を概観するとともに、いささかの私見を述べたいと思う。
二、 法隆寺金堂四天王像の銘記
法隆寺金堂像のうちの二天の光背の裏に銘記が見える。内容は、多聞天像の光背裏に「藥師德保上而/鍛師手 古二人作也」という主銘があり、その右側に逆さまの「汙久皮臣」 およびその上に斜めに刻まれている「薬師光」という針書が認められる。(図二)一方、広目天像の光背に「「山口大口費上而次/木閈二人作也」という多聞天像の主銘と同じ形式のものが見られ、それの右下に逆さまの「筆」という針書が認められる。(図三)そのほか、持国天像の光背裏に「汙久皮臣光」という針書が見える。(図四)
以上、法隆寺金堂像に見られる全ての銘記を列挙した。主銘に対する読み方の違いにより、法隆寺金堂像の製作者および分担製作を巡り、先学の意見が分かれる。そこで、先学の論証を参考にしつつ、法隆寺金堂像の製作者と分担製作に関して分析を試みたい。また、主銘以外の針書は重要ではないとは言え、わずかに触れることにしたい。