1.2 先行研究のまとめと新しい視点
世界におけて日本の女性についての先行研究は少なくないが、ほとんど日本女性の一つの方面から検討していた。マクロの視点から日本女性の社会地位の変化過程を描くものは多くない。
郭才佳の「浅析当代日本女性社会地位提高的矛盾表现」の中には日本女性は地位の上昇によって、教育、就職の方で、まださまざまな問題が存在していると指摘したが、日本女性の社会地位の上昇の原因は説明しなかった。従って、拙論では女性の地位の変化の原因を論じるつもりである。
大塚いわおの「日本における女性の社会進出について」という論文は日本の女性の社会進出に対して、それが充分に進まない原因、女性が高い地位に着かない原因、そして女性を高い地位に就かせる対策と言う内容で、女性の社会地位の変化は描かなかった。拙論は日本女性の社会地の変化過程を述べるつもりである。
本稿は日本女性の社会地位の変化の過程を中心に、日本女性の社会地位をマクロの視点から描きしたいと思う。従って、本稿は、まず日本女性のそれぞれの時代の社会地位を述べ、そしてその原因を分析するつもりである。最後に、日本女性の社会地位の変化の過程をしめくくる。源'自:751]'论-文'网"]www.751com.cn
2中世以前の日本女性の社会地位とその原因
2.1中世以前の日本女性の生活状況と社会地位
日本の中世は鎌倉幕府成立から室町幕府の滅亡までの時期である。中世以前の日本女性の社会地位は主に奈良時代の女性の生活状況や家庭地位などを描くことである。中世以前における日本女性は熱情で鷹揚であった。女性の自由さがそのときの中国女性に勝るともおとらなかったのである。当時に、『万葉集』という歌集のなかに、額田王などの女性歌人の作品がたくさん載っている。これから見ると、当時の女性は活発で自由である。彼女たちの生活もあまり制約されていなかったということが分かると思う。以下は具体的に中世以前の女性の社会地を述べるつもりである。
三世紀前の日本はまだ狩猟採集、牧畜民族であった。当時の日本は世界と全然繋がっていない状態だといわれる。日本女性は植物の栽培において非常に重要な役割を果たしたので、男性は女性を頼らなければならなかった。そのときの日本は母系制社会だといわれる。
三世紀に入ると、日本は大陸文化の影響で文化社会に入り始まるにつれて、日本女性の地位もだんだん変わてきた。そうであるとしても、当時の日本は相変わらず女性を中心として働いていたと考える。
奈良時代になると、日本は時代の進歩につれて、実際は母系制社会はだんだん崩れてきたといわれる。しかし、母系制社会の思想や習慣などがまだ日本の人々で残っていた。「妻問い婚」は母系制社会の特徴をはっきりと示したと思う。「妻問い婚」とは男性が大体15歳になると、結婚相手の女性を探したことになるようであった。自分も探すことがある、親や友達も探してくれることもあったのである。探した相手の女性は賛成すれば、結婚以後の生活は女性の家で行うようになったということである。それで、男性が夜に女性の家に通ってきて、朝には自分の家に帰った。昼間は、男性も女性も,それぞれの家で農業などの仕事を行うのが普通であった。両方はもう結婚したという情報を明らかにしたい場合は、次のような儀式はあった。男性が3日連続して、相手の女性の家に通い、3日目の夜に餅を食べてから、朝に妻の家族と両親の前に顔を見せるあと、男性は女性の家に通っていても,やがては同居した。年を取るとか、疲れるを感じとか、いろいろな理由であって、途中で相手の女性が嫌いになる場合と、逆に相手の女性がもう来ないでくれ、ということになれば結婚生活は終わったのである。男性はまた新しい女性の家に通うこともあった。そして、生まれた子供は女性とその親あるいは兄弟が育てるということになった。従って、子供は母親の家族の中で育つということになった。その他では、家は女性が受け継いだと考えられている。家屋、名所とともに、女性が親からもらったのである。男性ではなかった。それぞれのことから判断すると地位的に女性の方が高かったと考えられる。