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    鎌倉時代に栄西 が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、建久2年(1191)に帰国し、初めて臨済宗黄竜派を伝えた。都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195)、博多に日本最初の禅寺・聖福寺を創建した。正治2年(1200)、鎌倉に出向き寿福寺や建仁寺の住持となり、建保3年(1215)、鎌倉の寿福寺で没した。
    貞応2年(1223)、道元は、栄西が没した8年後の貞応2年に中国(宋)に渡り天童山景徳寺で如浄(にょじょう)禅師の指導を受け坐禅を中心とした本物の修行をし、安貞元年(1227)に帰国して曹洞宗を広めた。中国に渡るまで修行した建仁寺に戻ったあと、宇治山田に興聖寺を開山したが比叡山の圧迫などがあって、信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重から所領がある越前に移ることを勧められ、現在の総本山となっている永平寺(前・大佛寺)を開創した。建長5年(1253)、病のため、永平寺を弟子の懐奘に譲り、京都で治療したが、54歳の生涯をとじた。そして永平寺に遺骨を持ち帰り寺の西側に承陽殿を建てて葬られた。
     鎌倉時代には、仏教は一般民衆の信仰を集め、禅宗のほかに法然が浄土宗、弟子の親鸞(しんらん)が浄土真宗、日蓮が日蓮宗を開き、主なる宗派が出揃っている。南宗の渡来僧としては蘭渓道隆 (らんけいどうりゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いちざんいちねい)などが来日している。室町時代は座禅の考え方が武士階級に広がり、幕府の五山制度による禅院保護政策により隆盛を極めた。
    もう一つの禅宗・黄檗宗は、江戸時代に臨済宗楊岐派の流れを汲む隠元が中国より来日して開いた宗派である。万治元年(1658)徳川家綱との会見により山城国宇治郡大和田に寺地を賜り黄檗山萬福寺を創建した。
    郷土(福岡県柳川市)の旧柳川藩主・立花家の菩提寺、立花山福厳寺は、元は曹洞宗でしたが、寛文9年(1669)、4代藩主立花鑑虎の時に臨済宗黄檗派に転じ寺名を梅岳山福厳寺と改めたのもこの時期である。
     また衰退していた臨済宗を再興したのは江戸中期の白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)とされている。日本の禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3宗がある。
    上記のように、禅宗思想の隆盛は鎌倉、室町時代のことであった。その時、禅宗は他の宗教に比べて、ちょうど武士の気質にぴったりとあっていたことから、幕府の庇護の下で隆盛に発展した。その結果、園林芸術の創作に影響を与え、日本の庭園が宗教化に向けた特徴を持つことになった。
    1.2日本禅宗の特徴
    禅宗の最も重要な思想は「悟」である。具体的に説明すると、心中の道理を悟ることである。禅宗はそんなことを「見道」と呼ばれていた。禅は自然のことで、自然と一緒に存在している。心の目から見ていたら、この世界の万物は全部禅といってもいい。道を悟っていないとき、山は山であり、水は水である。そして、道を悟った後、山は山ではなく、水は水ではなくなる。道を悟った山と水は思想上で共であり、これには世界を洞察した道理があり、本当の知恵の表現とされる。
    中国の禅宗思想は主として悟りを開き、そしてそれを生活に応用し、あらゆるものの元気を表現することである。しかし、禅が日本に伝入してから、地理、歴史、気候などいろいろな原因で中国と違う独特な禅になった。
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