「甘え」について心理的面でさらに調べていくことにしたのである。また、相互協調的な人間関係を基盤とする日本においては、特に甘えが発達したと考えている。そこには日本人がボデーランゲージを好み、他人を世話になることを避け、自らが他人と似合いであることが良いとされるバックがあるからである。甘えが日本の国に溢れていれ、子供が両親に、学生が先生に、あるいは会社の職員が上司に対して、甘えという感情を持つのがごく普通で、自然なことである。[1]いわば、日本の人間関係が甘え合う関係である。本文でそのような関係を詳しく説明しようと思う。最後に、この「甘え」は社会の体制にどんな影響を与えているか、どんどん説明している。
2 甘えとは何か
「甘え」という言葉は『大辞林』には、次のように載っている。
・ 「甘え」 甘えること。甘える気持ち。
・ 「甘える」
① 物をねだったりかわいがってもらおうとして、ことさらになれなれしく振る舞う。甘ったれる。例「親に甘える」
② 人の好意・親切を遠慮なく受け入れる。人の好意・親切をあてにして、気ままに振舞う。いい気になる。例「お言葉に甘えてお世話になります」。
③ 甘い香りがする。例「いと甘えたる薫きものの香り」
④ 恥ずかしく思う。照れる。例「いとはしたなくののしりければ、甘えて出にけり」
「甘え」という言葉は日本語には特有の言葉であり、そのバックには母親を求める気持ちがあるということが、なのに「甘え」とは一体何の意のか。
「甘え」は『甘えの構造』で土居健郎に「相手の好意を失いたくないという心理」と定義された。そこで問題になるのは相手の好意であり、自分は一貫して受け身で享受する立場に立つのである。これによつて「甘え」の結果は相手次第ということになる。それで土居は「甘え」を、「受身的に愛されたい動機」とも説明した。
「甘え」を「受身的に愛されたい動機」と表現したことで、その後土居の理論は批判された。「甘え」は動機のみを表す語と定義していると十分に理解ではないからである。竹友はこう批判している。「甘え」は動機のみから成り立つものではなく、①甘える人と甘えられる相手、②両者の関わり方、③関わり方を規定する規則の三つから成り立つとした。ところが土居の考察には②への言及が少なく、また③の視点が欠けていると指摘した。「甘え」はその動機のみでなく、それに関して互いの関わり合いも指すわけである。。けれども、土居は動機と関わり合いとを分けて考察していない。だから、土居の「甘え」の定義を、動機の面だけで強調するのは不十分なものである。この批判に基づき、竹友は「甘え」と表現される関わり合いの性質を検討した。そして、「甘え」は「関わり合う二人の合意の基に常識的な日常生活の社会的拘束から一時的に解放されることを指し、甘えはそのようなコミュニケーションの様態を表す言語」と定義された。源^自·751·文.论,文'网]www.751com.cn
3 「甘え」の言語的起源
「甘え」という言葉は日本語に独特的な言葉であることが、この状況では日本人がいつから「甘え」を使うのか。そして、その言葉の起源は何か。それに対して、いくつの説があるので、これからすこしずっつ紹介する。