様々な論述を読み、筆者は太宰治のこの「意識の流れ」風で、独特な女性独白体の作品に深い興を持つようになった。川端康成が述べたように、主人公の「私」は憧憬としての「女生徒」であることがわかった。それに、関根順子も「太宰治『女生徒』論:消された有明淑の語り」において、「太宰自身が好み、同時に男性中心的な社会や読者が共感する『愛される』女学生像が作り上げられた」と、主人公のことを「太宰の望む少女像」として考えている。しかし、「太宰の望む少女像」とは具体的にどのような少女像なのか、それにおける研究は未だ見られないようだ。
そのため、本論では「太宰の望む少女像」に焦点を定め、それはいったいどのようなものなのかについて、考察していく。その上で、「女生徒」の「私」の行動や考えに着目し、太宰が描き出した「理想の少女」の特徴、すなわち、太宰が認める「少女の生き方」をまとめてみようと考えている。これこそ太宰がこの作品を通じて読者に伝えたいもののではないだろうか。
2. 先行研究
斎藤佳菜子は、「太宰治『女生徒』論__有明淑の日記との比較を通して」で、文体面、技術面と内容面という三つの方面において両書を比較し、それぞれの共通点と相違点を詳しく考察した。文体面、技術面においては有明淑と「女生徒」の「私」の設定、人物造形における工夫、また組合せの工夫や言葉の補充という四つの方面から研究を進めていた。そして内容面においては、太宰による創作、「私」と母との関係、「女生徒」の母親の人物像、「私」の女に対する嫌悪、そして女性観についての五つの方面が挙げられていた。考察の結果、「『女生徒』は、太宰による改変と再構成により、普通性を持ち、多くの読者の共感を得る作品となったと考え、『女生徒』を太宰の創作歴の中に位置づけることに問題がない」(注2)と結論づけた。つまり、「女生徒」の価値であれ、太宰の創作であれ、両方を肯定するという指摘がなされた。
その一方で、主人公の女生徒のある考えや行為に着目し、女生徒のある特徴やそこに隠された作者の意図についても様々な研究が行われている。
関谷一郎の「『女生徒』試読」という論述は、「女生徒」に関する研究の中でも最も権威のある研究だと思われる。「不安定なアイデンティティ」という多くの研究に見られる見解も、ここで初めて提唱された。「表現内容は一女学生の取り留めのない思いの羅列に過ぎず」、「評者は何を論じていいのか、とまどわざるをえぬ内容である」と、関谷氏はまず「女生徒」を論じることを難題とした。そして、本文からいくつかの場面を挙げて、女生徒の特徴を「不安定」と「自同性」という二つのキーワードにまとめていた。「『私』は『少女』から一人前の『女』に至る過渡期にいるわけであり、『私』の捉え所のない『憂鬱』や『苦しさ侘しさ』は、根源的には少女でも成熟した女でもない不安定なアイデンティティに由来すると言ってよい」。(注3)
また、「『女生徒』の時期特有の『ハシカみたいな病気』とは、自意識であり、自同性であり、すべて自己にまつわる問題である」と、「私」が自分のからだにこだわること、「ロココ料理」やお母さんからもらった風呂敷が好きということ、さらに「カア」という可哀想な犬に対して「わざと意地悪く」したことなど、いずれも自同性で解釈できるという指摘もあった。