その一方で、主人公の女生徒のある考えや行為に着目し、女生徒のある特徴やそこに隠された作者の意図についても様々な研究が行われている。
関谷一郎の「『女生徒』試読」という論述は、「女生徒」に関する研究の中でも最も権威のある研究だと思われる。「不安定なアイデンティティ」という多くの研究に見られる見解も、ここで初めて提唱された。「表現内容は一女学生の取り留めのない思いの羅列に過ぎず」、「評者は何を論じていいのか、とまどわざるをえぬ内容である」と、関谷氏はまず「女生徒」を論じることを難題とした。そして、本文からいくつかの場面を挙げて、女生徒の特徴を「不安定」と「自同性」という二つのキーワードにまとめていた。「『私』は『少女』から一人前の『女』に至る過渡期にいるわけであり、『私』の捉え所のない『憂鬱』や『苦しさ侘しさ』は、根源的には少女でも成熟した女でもない不安定なアイデンティティに由来すると言ってよい」。(注3)
また、「『女生徒』の時期特有の『ハシカみたいな病気』とは、自意識であり、自同性であり、すべて自己にまつわる問題である」と、「私」が自分のからだにこだわること、「ロココ料理」やお母さんからもらった風呂敷が好きということ、さらに「カア」という可哀想な犬に対して「わざと意地悪く」したことなど、いずれも自同性で解釈できるという指摘もあった。
その他、「父の喪失という境遇」に着目する研究も数多く見られた。佐藤秀明が「『女生徒』__表現する少女」において、父を失なった「私」は「不安定」というより、むしろ自己表現の権利を得たと言ったほうが良いと指摘した。「娘は、父の庇護を失ったことで、いずれジェンダー化の不平等にも直面するであろう。それは少女の問題であり、とりとめのない感情の浮遊性を言語化することのできた少女は、無言でイデオロギーの規範に従うことはないだろうという見通しを示している。自己決定権を得て表現する少女は、娘らしさを決定することになる」。(注4)
そして、主人公の意識についても、坂森美奈は「太宰治『女生徒』論」で、以下の三つの基準を論述した。第一の基準は、「表面的な美に対する基準」である。すなわち、「見た目の美を追い求めている姿が顕著に表れている」、内容より見かけに注目することである。次に第二の基準について、「関谷一郎が『成長しつつある少女が、成熟した女に対して反発を示すのは一般なこと』だとしたように、『私』には女特有の性質に反発する基準が存在している」。そして、第三の基準は、「理想と反する世俗の現実に対して『私』は嫌悪の反応を示しているので、道徳的な理想を求める基準が『私』には存在している」と述べている。
ところで、異なる角度から見た面白い研究も少なくない。例えば、「王子様のいないシンデレラ__太宰治『女生徒』と有明淑の日記」では、一つの特別な見解が出された。それは「『女生徒』の靴を与えられていない『私』=『裸足の少女』のイメージは、最後の『王子様のいないシンデレラ姫』へとつながっていること」である。
以上の様々な観点や論述を読んだ結果、これまで見られなかった完全な「理想の少女像」にさらに関心を持つようになった。このため、これからは学者らの見解を整理し、独自の意見を加えて「太宰の望む少女像」をまとめていきたい。