4.家族への愛情 8
4.1父親 8
4.2母親 9
5.個性と批判 11
5.1中心はずれの子 11
5.2批判の精神 12
6.おわりに 14
7.注 釈··· 15
8.参考文献··· 15
9.謝 辞16
1. はじめに
太宰治の「女生徒」は、昭和14年4月『文学界』に発表され、北村透谷文学賞の副賞に選ばれた作品である。太宰の女性独白体の代表作として、「女生徒」は発表された当時から評価が高く、各紙から注目され、賞賛が絶えなかった。川端康成も以下のように「女生徒」を論評した。
この女生徒は可憐で、甚だ魅力がある。少しは高貴でもあるだろう。女の精神的なものについて、大凡失望することの多い私は、この『女生徒』ほどの心の娘も現実にはなかなか見つからないのを知るのである。これは太宰氏の青春の虚構であり、女性への憧憬である。(注1)
しかし、実際に「女生徒」は太宰によるオリジナルな虚構小説などではなく、有明淑という太宰の愛読者で、洋裁研究所に通う十九歳の文学少女の日記を元に書かれたものである。太宰は「有明淑の日記」の組み合わせや言葉の添削において工夫を凝らし、三ヶ月分の日記を一日分にまとめて「女生徒」を書き上げたことが公開されて以来、それについて諸説紛紛であった。
多くの学者は「女生徒」と「有明淑の日記」との比較に注目し、様々な研究を行った。その一方で、比較より「女生徒」そのものに関心がある学者も多く見られる。主人公の「私」はどのような特徴を持っているのか、その特徴が形成された理由は何であろうか。それに、太宰と主人公はどのような結びつきがあるのか、などについての研究が行われ、様々な主張や論述が発表されてきた。
様々な論述を読み、筆者は太宰治のこの「意識の流れ」風で、独特な女性独白体の作品に深い興を持つようになった。川端康成が述べたように、主人公の「私」は憧憬としての「女生徒」であることがわかった。それに、関根順子も「太宰治『女生徒』論:消された有明淑の語り」において、「太宰自身が好み、同時に男性中心的な社会や読者が共感する『愛される』女学生像が作り上げられた」と、主人公のことを「太宰の望む少女像」として考えている。しかし、「太宰の望む少女像」とは具体的にどのような少女像なのか、それにおける研究は未だ見られないようだ。
そのため、本論では「太宰の望む少女像」に焦点を定め、それはいったいどのようなものなのかについて、考察していく。その上で、「女生徒」の「私」の行動や考えに着目し、太宰が描き出した「理想の少女」の特徴、すなわち、太宰が認める「少女の生き方」をまとめてみようと考えている。これこそ太宰がこの作品を通じて読者に伝えたいもののではないだろうか。
2. 先行研究
斎藤佳菜子は、「太宰治『女生徒』論__有明淑の日記との比較を通して」で、文体面、技術面と内容面という三つの方面において両書を比較し、それぞれの共通点と相違点を詳しく考察した。文体面、技術面においては有明淑と「女生徒」の「私」の設定、人物造形における工夫、また組合せの工夫や言葉の補充という四つの方面から研究を進めていた。そして内容面においては、太宰による創作、「私」と母との関係、「女生徒」の母親の人物像、「私」の女に対する嫌悪、そして女性観についての五つの方面が挙げられていた。考察の結果、「『女生徒』は、太宰による改変と再構成により、普通性を持ち、多くの読者の共感を得る作品となったと考え、『女生徒』を太宰の創作歴の中に位置づけることに問題がない」(注2)と結論づけた。つまり、「女生徒」の価値であれ、太宰の創作であれ、両方を肯定するという指摘がなされた。